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2 富岡製糸場世界遺産登録を記念して
 明日、富岡製糸場がいよいよ世界遺産に決定しそうです! 赤城山、榛名山、妙義山に代表されるやまやまに囲まれた群馬県は、住んだ空気、豊富な水、水はけの良い土壌が良質の桑を育てることで、養蚕農家が日本一でした。その群馬に明治5年に官営として建てられたのが富岡製糸場。かつては100社を超える製糸所があった群馬も今では「碓氷製糸農業協同組合」ただ一つ。富岡製糸場は1987年に操業を停止し、その後は片倉工業さんが毎年、千万から億の維持費をかけて当時の姿のままで守ったそうです。

 絹は元々、保温性、放湿性、抗酸化作用もあり、着るアンチエイジング。プラス日本の職人さんが、丹精こめて作った反物は氣質が良く、弊店のお客様でプチ躁鬱病が着物で治った!と言われた例もあります。ただ、残念なのは、肝心の反物は日本製が少なく、約99%が中国産、ブラジル産です。私の経験によると、少量生産の日本製の反物を使うと、一反あたりのコストは高くなり、必然的に着物の値段は上がります。その高価な着物を買われたお客様が、その着物で出かけた時にシワが出る、とクレームになったことがあります。シワになりにくいレーヨンなどの化学繊維に慣れてしまった日本人には、自然素材には致し方ない、座った時のシワなどが許容できなくなっています。自然の染料で染めたものから色が出ることも同じです。曲がったキュウリはいや、の時代の中で、私達はなるべく安価な海外産の反物を使うようになってしまいました。そして今では、中国人の工賃も上がり、日本への反物の輸出の数は少ないので、割高になり反物代はどんどん値上がりしています(着物欲しいかも、とお声を上げて頂いた方の分は、昨年中に反物を仕入れておいたくらいです)。

 遡ると、明治維新後に電気や車、鉄鋼、の産業を海外から輸入するためには、原資が必要ですが、その原資になったのが日本の繊維産業だったと聞いています。振り返ると、子供の頃、私の周りでもメリヤス問屋さん、染屋さんはもちろん、カネボウや東洋紡、日清紡の名前はよく聞く会社でした。必然的に個人でやっていたお蚕さんが結集され、国が運営したのが富岡製糸場。日本全体の発展に、もたらした寄与が、どれほどのものだったかと、特に、呉服屋の家に生まれ、その恩恵に与ってきた私には想うところがあるのです。そして、これが単なる遺産で終わることなく、今後の発展に繋げるため、身を挺したいと思っています。

 最後に、絹のルーツを辿ろうと、先月中央アジアのシルクロードを歩いてきました。飛行機の中から見た天山山脈は、日本の景色にはない、険しい山々の列、列、列です。そこを旅し続けた玄奘三蔵の行、シルクロードを辿った人々の行、製糸場で働いた方々、閉鎖後も維持した方々、世界遺産認定に労を尽くした方々、群馬を愛する文科省大臣と周囲の方々、全ての先人たちに心より敬意を表したいと思います。

(寄稿者:千谷 美恵)
2014年06月22日(新規掲載)

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