協会の活動状況・会員からの寄稿
NPO日本ウズベキスタン協会創立10周年記念
中央アジア周遊8日間ツアー記録
2008年9月17〜24日
キルギスタン/カザフスタン/ウズべキスタン3ヵ国

*時刻は現地時間
【目次】
9月17日(水)……1ページ
9月18日(木)……2ページ
9月19日(金)……3ページ
9月20日(土)……4ページ
9月21日(日)……5ページ
9月22日(日)……6ページ
9月23日(月)……7ページ
9月24日(火)……8ページ

■9月19日(金) 快晴 18℃ 29% ビシケク→イシク・クル湖
07:00  朝食。貧しいメニュー、ヨーグルトはあっという間になくなったが、補給に時間かかる。トマト、胡瓜、牛乳、バター、チーズ、ハム、ソーセージ、目玉焼き、硬くて乾いたパン、コーヒー、チャイ。
09:00  バス出発、ガイドはジャニベック君(純血キルギス人でビシケク人民大学東洋学部卒、25歳、妻は大学生だが出産のため休学中、訪日経験なし)、素晴らしい日本語使いだ。ドライバーはワディム(ロシア系)、オクタール(ウズベク系)両氏。
09:05  パトカー検問、制限時速60kmを15kmオーバーと称して60ソムの罰金を払わされた。ガイドは「恐らく警官の小遣い稼ぎだろう」という。60号線を行く。
車内でお土産にフェルトのフタコブラクダの縫いぐるみが配られ好評。フタコブラクダはキルギスではもう見られなくなり、カザフに行けば会えるはずという。
 途中で路上焚き火が2件、6車線ながら中央2車線だけアスファルト舗装がしてあり、左右は草地か砂利道。ペットボトルに黒い液体を入れて路傍で売っている。聞くと石油だそうで、タンクローリーの運転手がタンクから抜き取って密売するのだそうだ。
<ガイドの話>
1 ビシケクはソ連時代はフルンゼ(緑の葉)と呼ばれた。この地出身の将軍の名前。10世紀にシルクロードの宿場として栄えた。19世紀後半にロシア帝国の支配下となり、ロシアから多数の農民が入植した。遊牧民は定住させられた。
2 1950年代にキエフに次ぐ緑豊かな都市とされた。
3 昔、王妃が宝石を草原に落とし、40人の家来が探しに戻ったが、ついに見つからず、戻れば処罰されるのでここに定住してしまった。
4 (質問に答えて)バイクや自転車が少ないのは、冬の寒さが厳しいため、11月から3月までバイクは使えない。怠け者は自転車を面倒がる。代わりに地方では馬が足になる。パチンコはないが、ゲームセンターはビシケクだけに何軒かある。カジノは多い。カジノはカザフで禁止されているので、カザフ人はキルギスに遊びに来る。温泉は少ない。ここから30km先のイシュクアイン渓谷、カラコルムに近いジュトーヌス、ジャララバット州に幾つかあるだけで、温泉は湯治場で遊びではない。湯治場にはソ連時代にサナトリウムが建てられた。
 主食は肉とパンで、米はピラフかスープの中に入れる。ウズベク米に人気がある。しかし収量が少ないので、米は中国から輸入している。

09:32  鉄道の引込み線を渡り、ビシケクから20km離れたカント(角砂糖)の町。左前方に3本煙突のビート粗糖工場が見える。粗糖は鉄道でウクライナまで送って精製するという。
 ここにロシア軍基地がある。西50km先のマナス空港には米軍基地があり、1国に米露2大国の基地を置くのは珍しい。最初にできたのはアフガン戦争時代の米軍前線基地だった。期限を決めずに貸したので、ロシアの圧力に対しあいまいな態度で対処してきた。米軍を追い出せというのが世論だそうだが、政府は基地使用料に代えられない。この町もロシア軍が落とす金でインフラが整い、就職口ができて潤っている。なお、ウズベキスタンはロシアとの協調を考えて3年半前に米軍基地を返してもらったという。
 雪国のせいかバス停はコンクリート製の屋根と壁が付いていて立派だ。
<ガイドの話>
1 大学の東洋学部は韓国語、中国語、ペルシャ語学科は授業料免除だが、日本語学科は有料だった。キルギス、トルコ、アラビア語も同じ系統で主語・述語の順。文科省のスカラシップで1年に1人だけ日本に留学できる。筆記試験で4人に絞り、面接口述で採否が決まる。日本の大学院は年齢制限32歳まで。日本語教師講習3カ月コースも日本留学の道だ。日本語学科卒業生は就職が難しいので、日本留学チャンスを求め大学に講師として残る。日本へ行くと帰ってこない。
2 7年前の日本語弁論大会に出て優勝した。テーマは「花嫁泥棒」で、キルギスに遺る略奪婚慣行について述べた(当時の原稿を読み上げる。正確な日本語でよくまとまった感銘深い文章だ)。
 花嫁泥棒とは、気に入った女性を友人の手引きで呼び出して車に乗せ、そのまま自分の家に閉じ込めてしまうことで、逃げ帰った女性は自分の村にいられなくなる。いまだに結婚の3割は略奪婚だ。この結婚は(1)離婚しやすい、(2)女性の人生を突然変えてしまい、もっと良い結婚を封じてしまう、(3)女性の人権を蹂躙する——のでよくない慣行だが、さらわれてラッキーという女性もいる。
3 見合い結婚もある。適齢期は男25〜26歳、女20〜22歳で、女は25歳を過ぎると売れ残りやすい。

10:10  検問を無事通過。トクモクの町から175号線に移る。上下2車線仮舗装の狭い道だ。日干し煉瓦や土造りの農家が散見される。玉蜀黍畑が広がる。ポプラ並木が続く。丘陵が迫って来て、遠くに雪山が見える。
10:20  いつから追従してきたのか2台のベンツ社製マイクロバスに広場で分乗する。これから先は大型バスが通れない。小高い丘の切通しを抜けると砂埃舞う荒地だ。
10:35  歩いて遺跡とおぼしい小山に登る。そこには初老の男が立っており、小柄な少年が馬で駆けつける。西突厥時代の本拠スイアーブだったアク・ベシム遺跡だ。遺跡と言われればそうかと思える程度の土塁と穴で、風化がひどい。仏教寺院跡がこの場所で、少し離れた小高い丘は砦と街区らしい。早く保存の手を打たないと荒地に戻ってしまいそう。野ネズミの穴がある。気温25℃、湿度40%。
<ガイドの話>
1 ここに西突厥国の首都があった。長さ7〜8里の市街と城壁があった。水道管も出土している。
2 仏教寺院跡、ゾロアスター教の壺、キリスト教の墓地があり、多宗教が共存していたことが判る。住民は宗教別に集団居住していた。ワイン醸造場の跡も見つかった。

 (先回りしていた地元の男が発言を求め)北海道、本州、四国、九州、ソニー、パナソニック。電化製品、自動車メーカーは世界一だ。尊敬する国からの観光客に会えてうれしい。またぜひお越しを。次に来る時は日本の絵ハガキや観光パンフレットを持ってきてほしい。
 (馬上の少年にカメラが集中する)少年は小学生くらいに見えたが15歳という。馬術もすぐれ頼もしいカウボーイだ。名前はカザセットで、実家は次の通り。

※住所も氏名も順番は日本式
    Kyrgyz Republic, Chuioblast, Ak-Besim, Karacheva Orez st. 23
    Mr. Jumabaev Kadyrbek(父親の名らしい)

11:10  マイクロバスに戻る。カササギが飛んでゆく。少し走ってトイレ休憩となる。どこにも便所がない。男は路傍で立ち小便、女性は少し離れた繁みでパラソルに隠れて青空トイレだ。
11:30  鉄道を渡り大型バスに戻る。ミネラルボトルを配る。路傍の共同水道に水汲みが並んで待つ。農家の庭に四角い干し草ブロックが高く積んである。左にアラトー山脈が迫る。
<ガイドの話>
1 子供のなりたい職業は(1)役人=薄給だが袖の下があり権力絶大、(2)なんでもいいから頑張らなくても金がもうかる仕事、である。
2 教育制度は、小3・中6・高2・大5年制。大学生は男女半々だが、卒業すると専業主婦になる女性が多い。
3 キルギス人はイスラム教徒だが、あまり熱心でない。モスクに行かないし、家で1日5回の礼拝もしない。今はラマダンの最中だが、平気で飲食するし、豚肉も食べる。酒も飲む。しかし、経済的に困ると宗教に救いを求める。
4 もともと騎馬民族で、「青い狼」というお祭りで山羊を奪い合う騎馬合戦をやる。

11:55  ブラナの塔。小屋の博物館があり、大地震で倒壊する前の塔の姿、再建工事の様子などが見られる。小屋番の女性は、4年前に来たことがある人は「当時とちっとも変らぬ美人だが、変わったのは子供が増えたことだ」という。小屋の外にみやげものの露店があり、キルギスの地図が300ソム。塔の広場には各地から集めた石人が並べてある。
<ガイドの話>
1 ブラナの塔には王女の悲しい伝説がある。イスラム最初の王朝カラハン王は、占い師から「娘は15歳になったら毒蜘蛛に刺されて死ぬ」と予言されたので、王はこの塔を造り頂上に娘を隠し地下に占い師を幽閉した。16歳の誕生祝いのご馳走の際大粒の葡萄の陰に潜んでいた蜘蛛に刺されて王女は亡くなった。11世紀のこと。
2 16世紀の大地震で高さ45mの塔は崩れ、1974年に再建したときは24mになった。
3 周辺の石人は紀元前5〜6世紀突厥時代の墓石で、その顔は戦死者の面影か、本人が戦った敵の顔を象る。片手に短剣、片手に酒杯を持たせ、葬式の酒宴の際この杯に酒を注いだ。

 螺旋階段から2階の入り口に入り、思い思いに石段を登り頂上の360度展望台に立つ。石段は暗く懐中電灯が要る。行きは良いよい、帰りは怖い。後ろ向きで一足一足石段を探りながらの難行苦行だ。

12:55  出発し、近くの村落でモカン家の昼食接待にあずかる。当主は60代の元校長先生で、入口で迎えてくれる。「日本からお出で下さってありがとう。ミホ(添乗員)とは顔なじみです」。
 メニューは、サラダ(胡瓜、トマトのヨーグルト和え)、人参などの煮込み、揚げパン、厚手のナン、ブルーベリーと杏のジャム、ヨーグルト、サワークリームを付ける。ベシュベルマック(ラザニアと羊肉のコンビーフ風)、マクスン(小麦のサワー飲料)。デザートはチャクチャクという揚げパスタのコンデンスミルク和え。みんな手作りで美味しかった。
 トイレは背後の畑の中の掘立小屋が女性専用で、男は林で立ち小便。庭に燃料用の牛糞が乾してある。英国人団体が食事を終わって出てきた。10日間の中央アジアツアーでキルギスは2泊という。
14:15  集団写真を撮り、バスで出発。どこまでも一直線の線路を渡り、トクモクの町に戻り175号線にUターンする。ガソリンスタンドで給油。ガソリンは27〜33ソム。
 途中に墓地があり、葬ったばかりの土饅頭に花が供えられている。
 間もなく、左にチュイケミン川の広い河原を見ながらケミンの街を通過。上下4車線のA365号線に移る。モスク、銀行が見える。右には3,000m級ながらなだらかな山並みのキルギスアラトー山脈が続く。
 上下線が分岐して左側の道に移ると、きれいな水が流れる川を渡る。広い杏の果樹林を見ながら河岸段丘を登ってゆく。道は工事中でガタガタ、蛇行する川の河川敷に馬が放牧されている。左は岩山。用水路にも小川にも水があふれている。対岸の山腹に鉄道の防雪シェルターが連なっている。
  左奥にはクンゲーアラトー山脈、天山山脈の2つの支脈の間を縫ってドーモト
渓谷に入る。
<ガイドの話>
1 ドーモトとは狭い道の意。20km続く。
2 1916年、ロシア革命の前年にキルギス人が帝政ロシアに対して蜂起したが、敗北してこの道を中国に逃走した。4,000mのベデル峡を越える時、凍死、餓死者が続出した。その記念モニュメントが山腹に立っている。
3 チュイ川はカザフに流れ砂漠に消える。

15:40  険しい崖、深いV字谷、泡立つ流れを見ながら、クスキューユ村落を通る。切り立つ崖の上にも一軒家。銀色のカモシカのモニュメントもある。ビシケクからイシク・クル湖をつなぐ鉄道が接近してきて、上の段を行く。やがて州境を鉄橋で越える。谷を下ると、あちこちに観光客向けユルタのみやげ物屋がある。右に川がすれすれに接近してくる。
15:55  売店でトイレ休憩、強風に吹き倒されそうだ。トイレ使用料は2ソム。アルコール度7%のバルチカ・ビール500ml缶が45ソム。
16:10  中国に通じる道が右に折れる。峠を越えてカシュガルまで360km、トラックが中国製品を満載してやってくる。
 岩山に金網で作った大きなキルギス国旗が貼ってある。その下に白い字で大きくキルギスタンと英語で書かれている。この道は鉄道と並行してイシク・クル湖のリゾートにつながる。列車はビシケクから6時間かかり、夏は客車、シーズンを終わると貨車が走る。川岸で採れるウメモドキのジュースやジャムが路傍で売られている。
16:25  平地に下りる。荒蕪地だ。白雪連峯をバックに青い湖水が見えてくる。「中央アジアの真珠」イシク・クル湖だ。シルクロードを書いていた作家井上靖が「生涯に一度でいいから見たい」と言いながら、旧ソ連の許可が得られず果たせなかった幻の湖水でもある。
16:30  ゲートがあり環境税を払う。国内バスは100、外国車は500ソム。鉄道の終点バルチー市街に入る。湖の西端にあたる大都市だ。林はすでに黄葉を始めている。
 露店の蜂蜜屋に立ち寄る。花粉入りハニーが100〜250ソム。風速20m以上の強い風でバスの扉があおられる。近くの路上で魚の燻製も並べてある。
<ガイドの話>
1 ここは風が強く40mくらいの強い風がしょっちゅう吹く。降水量は年間僅か150mm、冬も雪は降らない。
2 バルチーは漁師の町で、バス、うぐい、鯉、白鮭が獲れる。昔は魚が多くてバケツですくえるほどだった。燻製工場が多く他の湖水魚もここで加工した。
3 人口5万人、湖畔にはこのほかにチョルパン・アタ(保養地)、カラコル(州都)の3都市がある。
4 「キルギスの宝石」と呼ばれるイシク・クル湖は、東西78km、南北60km、広さは琵琶湖の7倍、6,236平方キロある。水深は最低702m、平均298m。80河川の雪解け水が流れ込むが、流出する川は1本もない。絶えず蒸発しているから洪水はない。1周幹線道路は440kmある。
5 塩分はリッター当たり6g。水温は高い。温かいのは王との悲恋で身投げした美女の心臓のせい。塩っぱいのは美女の親族の嘆きの涙のせいという伝説がある。
6 潜水調査の結果、紀元前3〜後2世紀の遺跡が10カ所発見された。ウソン族の町かもしれない。中国歴史家のいう赤谷か、13世紀のチムール帝国の流刑地説もある。

*春の豊水季にも洪水がないということは、地下から伏流水がどこかへ流失しているかもしれない。今後の地質調査が待たれる。

17:20  タンチーの町。左の4,000m級の山に氷河が見える。山頂近いコルは氷河特有のU字形だ。リンゴ園が多い。土葬でない墓地がある。涸れた河川が何本か湖水に向かっている。
<ガイドの話>
1 日本製中古車は船で中国へ、そこから鉄道でカザフ経由キルギスに持ってくる。右ハンドルだが、ドイツ車より安い。1996〜1997年式が4,000〜5,000ドル。
2 右ハンドル車は3年前ロシアが禁止し、2年前にはカザフがこれに倣った。キルギスでも事故が多いという理由で議会に禁止法案が出ているが、まだ施行されていない。欧州の中古車業者組合が各国議会でロビー活動を展開し、日本車締め出しを計っている。

17:45  チョルポン・アタの町。人口15,000人だが、シーズン中は3倍になるそうだ。ソ連時代は流刑地だったが、その後サナトリウムができて保養地になった。80年代に建てら団地は、住民が出稼ぎに出てしまって、夏季は貸し間になるという。ソ連時代の飛行場の滑走路が残っている。
17:50  野外博物館で岩絵を見る。紀元前8世紀ごろ氷河河口原のゴロゴロした丸い岩に5世紀の住民が絵を描いたという跡で、かすれているのや苔むしてよく見えないものもある。鳥や獣や狩猟の情景が描かれている。「野牛と山羊」「太陽神と山羊」「キャラバンの人と駱駝」などの解説板がある。
18:30  日没、残照が赤い。1920年代に植えたというポプラが大木で並ぶ。湖水が接近し、広大な庭園のある豪華ホテルが見える。
<ガイドの話>
1 カザフ大統領の息子とキルギス大統領の娘がここで豪華な結婚式を挙げた。ロシアはお祝いにイタリアから白砂をヘリコプターで運んでプライベートビーチを飾り、ソ連高官専用だったこのホテルをお祝いに贈った。しかし、カップルはここを別荘として使う間もなく1年足らずで離婚してしまった。
2 隣のオーロラ・サナトリウムは60年代にブレジネフ書記長も保養にきた。今はキルギス高官用ホテルになっている。

19:00  コルムドゥー村のオホートヌイ・ドゥヴィル・ホテルに着く。薄暮の路上でしばらく待たされる。門内にバスが入れないことが判り、降りてスーツケースを引きずりながら指定されたコッテージに分宿する。
20:30  レストラン棟で夕食。飲み物は旅行社のサービス。スープはビーフヌードル、サラダはキャベツ、赤ピーマン、胡瓜、人参、パセリの新鮮な生野菜でサクサクしておいしい。皆に好評。紅いパプリカに羊肉とライスを混ぜた詰め物。
 食後、湖畔に出て空を仰いだが、楽しみにしていた星は2つ3つだけ、半月が霞んでいた。
 コッテージは棟ごとに窓の向きが違い、湖水に向かってバルコニーやテラスがあるのは少ない。わが棟は湖水側にシャワー室があって何も見えない。シャワー室の洗面台に排水栓がなく、足ふきマットもない。しかし、新築後間もないルームは広くて清潔だ。設備は簡素すぎる。エキストラベッドになったソファ代わりに、スーツケース台に座布団が置いてある。
(松永 太)
2009年1月10日(掲載)
このページのトップへ移動する
© Copyright 2001 - 2021 The Japan-Uzbekistan Association. All Rights Reserved.
日本ウズベキスタン協会 〒105-0003 東京都港区西新橋1-17-1-3F TEL03-3593-1400 E-mail:jp-uzbeku@nifty.com
嶌信彦のホームページはこちら