協会の活動状況・会員からの寄稿


参加者による旅行記・写真寄稿(専用サイトも開設されました。)

※1 専用サイトはこちらから
※2 当協会会長嶌の寄稿はこちらから

◆9月6日、日本を出て、9時間半あまりでタシケントに到着。バスに乗り込みホテルへ、道が片側三車線で広い。思っていたイメージよりもかなり都会で緑が多い。

この日は、ホテルに着き夕飯のみの旅程。皆、初対面ながらお酒が好きな人が多く、初日から和気藹々としていた。

食事後、ホテル前の酒屋に早速行き、ウズベキスタンワインなどを買われている人も結構いた。私もワイン2本とビール1本を購入。



◆2日(9月7日)ついに念願のヤッカサライの日本人墓地にやってきました。

墓守を長年して下さっているミラキルさんと、息子さんのフルラムさんにお会いでき、長年お墓を守ってくださる御礼をお伝えしました。

今回、ナボイ劇場建設に携わられた第四ラーゲリの隊長の永田行夫さんの長男 永田立夫さんもご一緒しており非常に感慨深く手を合わせていたのが非常に印象に残っています。

皆でいい御供養ができたことがうれしかったです。


◆「アラル海への道」
本稿の寄稿をいただいた千葉先生は,かつて当協会が開催していたシリーズ講座「シルクロード・中央アジアクラブ」にて講演をいただいております。>>詳しくはこちらから

ずいぶん昔のことですが、学生の頃、「蒼き狼」(井上靖著)を読んだのが中央アジアに少し興味を持ったはじめでした。それから数十年の後にカザフスタン、ウズベキスタンへ何度も足を運ぶようになりました。はじめてウズベキスタンを訪問したのは1999年のこと、タシケントの国境なき医師団の事務所へアラル海問題の現状について話を聞きに行きました。そして当初はカザフスタン側からアラル海を見ていて、2007年にウズベキスタン側、タシケント→ヌクス→ムイナク→アラル海へ行きました。

今回のアラル海へのルートと同じです。道幅が広くなり、舗装されていて、沿道にサクサウールの植樹もみられました。自動車と混在して大通りを行く荷物を満載したロバを今回は二度しか見ませんでした。アラル海モニュメント、白い四角錐のすぐ下まで水を湛えていたアラル海を想像してください。船の墓場といわれている古い漁船が散在しているところまで階段をたくさん下りました。旧湖底です。水は見えません。はるか100㎞位先まで行けば水を見ることが出来るかもしれません。わずか半世紀で自然環境がこんなに変わった、人為的な行為で。誰が言い出したのか、アラル海の縮小は20世紀最大の環境破壊といわれます。それを実感できたこの旅の意義は大きいと思います。

勝手な想像ですが、今回の旅の計画は川端理事長が「あれも見て欲しい。これも経験して欲しい」という真心の結晶で、時間的な制約から妥協した点も多々あったでしょう。それをドストンさんが上手にフォローして、まるで日本人のような的確な日本語で、歴史的な知見も併せて説明してくださったことは旅の意義がさらに充実されました。

ドストンさんももっといろいろお話してくださりたかったでしょうけれど時間との兼ね合いを上手に使って名解説者でした。また、参加者の皆さんはお気づきでしょうが、ヒヴァという世界遺産の中に東京農工大学という日本の大学名を冠した施設『Cocoon(コクーン)』を開設し、活発に営業を続けているという事実、「日本女性 ここにあり」乾杯!

タシケント、ヌクス、アラル海、ヒヴァ、サマルカンドを巡って(残念ながらブハラへは行きませんでしたが)やはり人に勧めるならサマルカンドだな、と思いを強くしました。
(寄稿者)会員:千葉百子様


◆「行く先々での素晴らしい歓待に感激」
極めて密度の濃い旅程でありましたが、その行く先々で素晴らしい歓待を受けることが出来たのが印象的でした。ヌクス空港に降り立った瞬間の出迎えの演奏、ウルゲンチで鑑賞した民族舞踊、各地政府の方々より直接厚遇を受けたこと等、忘れ得ない思い出となりました。通常のツアーでは到底味わうことが出来ないものであり、協会とウズベキスタンとの強い信頼関係によるものであると感じました。

天候にも恵まれ、晴天の元で眺めたイチャン・カラ遺跡やレギスタン広場の青い壁もまた胸に残る見事なものでありました。「サマルカンドブルー」は背景に抜けるような青空があることを前提として作られた作品なのではないでしょうか。

今回私は一人で参加致しましたが、数々の得難い経験を共有する中でいつしか自然と同行の方々と馴染むことが出来、1週間という短い滞在期間の後半には全参加者28人それぞれが皆かねてからの知り合いであるかのように打ち解けていたのがなんとも不思議な感覚です。
(寄稿者)会員:笠井嘉時様


◆「アフラシャブの丘」
 少年の時から関心があったシルダリア、アムダリア両川の間の『マー・ワラー・アンナフル』のオアシスの深い歴史に接することが出来て幸いでありました。特に今回、サマルカンドのアフラシャブの丘に登れたのは大変うれしかった。ドストン氏の懸命のガイドは極めて好感が持て、この国の明るい未来を予感させられた。日本語修学の女子学生達も然り。

 反面、参加者には高齢者が多く、若年層、特に大学生などの参加が無かったのは、残念であった。また、ウズベキスタン協会設立20周年記念行事としての旅行なので環境問題はもう少し軽目ではどうだったろう。

 次に機会があればフェルガナを訪れたい。

◇旅行中の吟行句(俳誌『雲云』投句)を記す
  オアシス
  濁りたる雪解川オアシスの秋
  蒼天下青春のオアシス二度立ちぬ
  オアシスに牛馬駱駝枯るる麦
  亜細亜なり今も手で摘む綿の秋
  表駆千里バザールは今秋の色
(寄稿者)会員:山本浩之様

◆「サマルカンド・ブルー」
 二年前に一度ウズベキスタンを旅しましたが、今回は普通のツアーでは体験できない貴重な楽しいイベントに参加できて幸せでした。

 青空の下、サマルカンド・ブルーの建物群は息を呑む美しさでした。タシケントの街は広いとおりとそこここに点在する緑の木々が涼しげな公園も印象的でした。そしてそこに集う人々の明るく楽しげな表情に、この国の未来が映し出されているような気がしました。

 サマルカンドのレストランでのディナーの折、同じテーブルになった市職員の方が自分の名前はお祖父様が祖国の独立を祝して、「自由」と名付けてくれたと話してくれました。また、日本センターで懇談した女子学生もそれぞれ自分の名前には「星」「良い花」「美しい花」の意味があると自己紹介してくれました。日本人の名前と同じく親や祖父母の願いが込められていることに親近感を持ちました。

 私の友人の中には「○○スタン? 大丈夫?」と心配する人もおりましたが、複雑な歴史を持ちつつも未来に向かって発展している親日国ウズベキスタンを、世界でたった二カ国しかない二重内陸国の一つであるウズベキスタンを、多くの人に訪れてほしいと思っています。
(寄稿者)会員:山本廸子様

◆念願のウズベキスタン・タシケントの『日本人抑留者資料館』
 私の父は、タシケントに抑留をされていたため、時々協会のホームページを見させていただいて今回の旅行を知り、参加させていただきました。

 父は奉天電信54連隊で停戦、1945年11月にタシケント第二収容所着、1948年7月舞鶴に引揚げました。

 念願であった日本人抑留者資料館では館長から展示品の第二収容所の電線工場の写真と関連書類を教えてもらいました。残念ながら詳しい場所は持参した地図の範囲外でわかりませんでした。母は父から建造物の仕事をしていたと聞いていました。タシケントの建造物といえば、ナボイ劇場しか知らなかったので、父も従事をしたとおぼろげに思っていました。嶌信彦氏の著書で第4収容所が担当とあったのと、舞鶴引揚記念館のウズベキスタン抑留展などで抑留者が建造した多くの建物があることを知りました。いつか確認したいと思います。

 しかしながら、個人での情報収集は限界があります。日本ではどこの博物館でもホームページがありますが、抑留資料館のホームページが未だないのは非常に残念です。ぜひ、何らかの方法でホームページの立ち上げを希望します。

 5年前の訪問時には、ナボイ劇場は工事中で塀に囲まれ全体の美しさが見られず、レギスタン広場の中庭も工事中で入れなかったのですが、今回は、劇場の中まで入れ、広場ではプロジェクションマッピングを満喫できてヒヴァにも行けて満足できました。

 アラル海が干上がっている惨状は今回、始めて知りましたが、一般的にあまり周知されてないのではないでしょうか。自然は簡単に破壊されてしまい、環境問題を引き起こすものと実感できました。

 ウズベキスタンの経済発展は、タシケントの美しい街でありながら整備がされており、実感しました。しかしながら在留日本人がわずか120名ということで、貢献すべきことはもっとあるのではないでしょうか。商社の駐在員が、フェラガナ地方はインフラがないので商売にならないと言っていましたが、最前線でこのような意見をもっているのでは多くの日本語を学んでいるウズベキスタンの青年の期待に応えられるか心配です。また、ノリコ学校に中国企業から出資の提案があるということですが、借金漬けと一帯一路に飲み込まれる危惧を感じました。

 参加されたみなさまの知的レベルが高くご高齢でありながら第一線で活躍されており、旅行の楽しみだけでなくいろいろと勉強になり、参加させていただきありがとうございました。
(寄稿者)会員:栗原喜紀様

◆なんで「ウズベキスタンなの?」
 友人に誘われ協会に入り十数年、2度ほど旅行のチャンスはあったものの、仕事の都合などで、機会を逃してきてしまいました。

 今回は「20周年記念旅行」、この期を逃したら…と考え、思いきって妻を誘い、参加を決めました。

 誘ってみたら開口一番、海外旅行といえばフランス・イタリア…にも行った事が無いのに「なんでウズベキスタンなの?」確かに妻の言う通り。そこで、これまでの経緯を説明したものの、いぶかしがる妻といざウズベキスタンへ!

 日本人墓地、日本人抑留者資料館、嶌会長がウズベキスタン協会設立のきっかけになったナヴォイ劇場。ヒヴァ、サマルカンドの世界遺産、バザール等々全て感動・感激の連続でした。かつて北海道の広さがあったというアラル海が大規模灌漑農業で湖面が四分の一に。現地で旧アラル海の船の墓場を目の当たりにして愕然とし、少しでも元の姿に戻るように願いました。

 もう一つ印象に残ったのは、日本センターでの交流です。日本に来た事の無い、学生さん達が流暢に日本語を話すのに驚きました。聞けば皆さんが日本に憧れて、是非来日したいと異口同音。もっと聞きたい、話したい気持ちのままタイムアップが少し心残りでした。

 他のツアーではまず経験出来ない、様々なVIP待遇と観光と歓迎。車内での先生方のお話、ドストンさんの結婚話も楽しく聞かせていただきました。

 また、車窓から見る牧歌的な風景と対象的に建築中の建物が並ぶ光景は、これからのウズベキスタンの繁栄を匂わせているかのようでした。素晴らしい方々とご一緒出来た8日間があっという間に過ぎました。とても楽しく印象に残る記念旅行でした。 帰国後の妻の一言「ウズベキスタンで本当に良かった!」
(寄稿者)会員:齋藤郷士様


◆「主権を持った独立国の気概」
 「ウズベキスタン、白いシボレー Chevrolet ブランドの車ばかりが走る国!!」。2階にしか座席がない大型観光バスに乗り、明るいタシケント市街を初めて走ったときに目にした光景。広々した車道。高木が連なりゆったりした歩道が整備された贅沢な空間。両側に並ぶ重厚な沢山の建物。良い旅になりそうな予感がした。

 旅行中渋滞には遭遇していない。車の数も日本とは比べ物にならない数しか走っていない。駐車した車や流れを見ていて誰もが感じ始めた不思議な感覚。車の形がほとんど同じ、しかも白。よく見ると1つのブランドばかりだということに気付かされる。形やブランドが違う、白以外の車を見かけるのは稀だ。

 旅が終わりに近づいた頃、バスの中でついに誰かが質問した。現地ガイドのドスちゃんはその秘密をしっかり説明してくれた。

 「車の輸入関税」が篦棒(べらぼう)に高率だという! なんと 100%! 400万円の車を輸入すると 400万円の関税が課せられ、それを売るなら 1000万円くらいになる。ツアー全体の印象は、ちょうど日本なら高度成長期の入口付近(1955〜1960)にさしかかった時期だろうか。皆お金がなく、若者たちが一生懸命仕事に励んだ時代だ。シボレー以外の車を買おうなんて誰も考えない。この国の乗用車工場は「GMウズベキスタン」だけらしい。

 この話を聞いて思った。GMウズベキスタンの工場誘致の条件だったのか? この高関税率がどういう理由で決まったのか知りたい。車を売り込みたい国がひしめいている中で、よくもこんな税率を維持していること自体驚きを禁じえない。輸入関税は本来、他国の事情を考慮せず、国内経済を安定的に運営するための仕組み。高級車を求める車マニアには気の毒だが、私にはこの国に相応しい政策に映る。こんな政策を対外的に維持するのは真の独立国しかできないと思うから。

 この国が成長を遂げたとき、極端な貧富の格差が生まれない可能性を秘めた素晴らしい仕組みがある。それは「土地の所有権」の形態だ。「ウスベキスタンでは,土地は,国が所有するのが原則である。したがって,国以外には,土地の使用権しか認められないのが原則である。」(*1)

 独立を勝ち取り、ゆっくりとした国造りが始まっている。先進国の様々な公害事件を学んで生かしてほしい。天然ガスや石油、金などが採れることで、その「利権」をめぐって他国から狙われるのではないかという危惧を抱かざるを得ない不安もあるが、最終日に出会い交流した、目を輝かせて学びたい意欲に満ちた若者の姿が眩しい。

 ツアーの最大の収穫は、「主権を持った独立国」の気概を感じたことだった。どこかの国のように、形だけの「独立国」に陥らないよう、若者がしっかりこの国の未来を築いてほしいと願ってやまない。

(*1)法務省「ウズベキスタン共和国の不動産登記制度概観」(http://www.moj.go.jp/content/000010288.pdf)
(寄稿者)会員:平林祐二様


◆「旅の終わりとその後」
 帰国して3日後、私は嶌信彦著「伝説となった日本兵捕虜 ソ連四大劇場を建てた男たち」(角川新書)を購入しました。私は2015年出版の単行本も読んでおり、その真実のドラマに驚き、感動し、その爽快な読後感に心打たれたものでした。

 今回、著者と主人公の永田氏のご子息と共に、実際にこのノンフィクションの現場タシケントを訪ね、日本人墓地を参拝しました。3代に亘り墓守をしてくれているという現地のウズベク人に会い、日本人抑留者資料館で記録映画「ひいらぎ」を鑑賞した後に当時の遺品や写真を目の当たりにし、スルタノフ館長の熱い思いに触れました。その後、現存するナボイ劇場をつぶさに見学し、その力強く繊細な美しさに感動したことから、もう1度この本を読みたくなったのでした。

 そして、旅行中の数々の場面と感動と想いが重なり、この真実の物語は、より鮮明に生き生きとよみがえり、私の中に現実のものとして深く大きく存在しています。この素晴らしい経験を今後、私は他の人々に話してゆきたいと思います。戦争の無い平和な世界を願いながら。そして、私達が日本人と知ると、駆け寄り「こんにちは!」「こんにちは!」と日本語で声をかけて走り去って行った、あの子供達の澄んだ瞳を忘れないように。

 本当に心に残る素晴らしい旅行を有難うございました。
(寄稿者)会員:中村裕一様


◆「予期せぬ素晴らしい体験」
 出発前、こんなにも素晴らしい体験ができるとは思いもしませんでした。日ごろお世話になっている協会の旅行でウズベキスタンへの理解を深めたいという思いは勿論ありましたが、私が長年応援しているタシケント出身の音楽家 故アレクセイ・スルタノフの従姉ナジラ・モハメドヴァさんと会って話を聞く目的もありました。今回、川端理事長の計らいで会うことが叶いました。

 スルタノフの父が親族の中でスルタノフに一番似ているからとナジラさんを案内役に任命してくれました。ナジラさんは前日のウズベキスタン協会20周年記念パーティーにも参加してくれました。私は、翌日皆さんと別行動し、通訳を交え彼女とスルタノフの思い出の地を訪問することができました。

 まずスルタノフが通っていた、ウスペンスキー特別学校を訪問しました。学校の理事長が休みの日にも関わらず、学校の中を隅々まで案内してくれ、スルタノフが指導を受けた優れた音楽教授のタマラ・ポポヴィッチ先生の思い出を語ってくださいました。

 この学校は、幼い子供たちの才能を最大限に伸ばすことに努めており、工夫に富んでいました。今回、スルタノフに関する資料は荷物の重量制限の兼ね合いで、簡単な資料のコピーしか持参していませんでした。校長先生はスルタノフの資料を集めておられ、そのコピーを熱心に何枚も写真に収められ、もっと他の資料も持ってくれば良かったなと後悔しました。また、理事長はスルタノフより4歳年下でタマラ先生の下で共に勉強されたそうです。若くして校長、理事長になられたことからも、その才能が飛びぬけていたことが窺えます。

 その後、スルタノフの父方の祖母が眠る有名人だけの墓地に連れて行ってくれました。この方はウズベキスタンで初めて顔を隠さず舞台に立った有名な女優で、国家名誉女優の称号を与えられ、この墓地に埋葬されていました。スルタノフの死後、遺灰はメキシコ湾に撒かれたと聞いていたのですが、ウズベキスタンの地に眠りたいとの本人の願いが叶えられ、大好きな祖母の墓地の土の下にも撒かれたことがわかりました。

 また、このお墓の隣には有名な歌手バティール・ザキロフが埋葬されていました。実は、私が長年関わってきた「アレクセイ・スルタノフ記念コンサート」でザキロフが歌った歌「ウズベクタンゴ」「魅せられて」をバイオリ二ストの黒柳紀之さんとピアニストの呉信樹さんが弾かれました。私たちは偶然この曲をプログラムに選んだのですが、不思議なつながりがあったことに驚きました。

 最後に、スルタノフ一家が住んでいたアパートに案内いただきました。両親が勤務していたタシケント音楽院から道を隔ててすぐの、木に囲まれた閑静な場所でした。家の前を流れる小川で幼い頃、弟のセルゲイさんと共によく水浴びをして遊んでいたそうです。庭には「アレクセイ・スルタノフ記念コンサート」でセルゲイさんがスピーチされたプラタナスの木もあり、二階の窓からこの木を見つつ、日本に思いをはせて語り合ったのだなあと胸が熱くなりました。

 このアパートは震災後、結婚した末の息子のために祖母がくれたものだそうです。祖母は郊外の大きな家のほかに3つアパートを持っており、それぞれ三人の息子たちに分け与え、ウズベキスタンの風習に従い、それぞれの家で一定期間、一緒に暮らしていたとのことでした。

 スルタノフ以外にも語りたいことはたくさんある旅でしたが、他の方が経験されていないウズベキスタンの思い出を記しました。お世話になった方々に心からお礼申し上げます。忘れられない素敵な旅になりました。本当にありがとうございました。
(寄稿者)会員:鳴海和子様


◆「夢のような旅路」
 「ウズベキスタン旅行に行くからね」と娘に電話をしたら、「え、何でそこなの?」

 そんな会話で始まった旅でした。私自身も「ウズベキスタン」という名前は聞いたことはあったけど、場所もはっきり分からない未知の国でした。説明会に出席してお金の単位がスムでドルしか通用しないらしい事、トイレの事等々、大丈夫かなと気持ちが揺らいできました。家に帰り地図を見て、アラル海問題について書かれている資料などを読み、シルクロードに辿り着いた時には、絶対に行きたいという印象に変わりました。

 タシケントは木々に囲まれ、道路も広く整備され、街そのものが公園の様でした。日本人墓地も手入れが行き届き、手厚く管理されている事を知り、感謝の気持ちになりました。

 色々な所を見学しましたが、やはりサマルカンド「青の都」は圧巻でした。レギスタン広場からの眺めは飽きず、ずっと座って見ていました。また、どこへ行ってもVIP待遇を受け、夢の様でした。

 日本語ガイドのドストン氏は、歴史から美術工芸の事など、流暢な日本語で説明され、大変素晴らしかったです。最高な旅をありがとうございました。
(寄稿者)会員:片岡廣子様


◆「タマリスクの花畑」
 旅行の4日目、ヌクスからムイナクへ向かう途中のことでした。街を後にし、地平線を望む大地に紫に近いピンク色の植物がちらほら見えてきました。

 20年前の9月に中国・新疆ウイグル自治区へ旅行した際も咲いていたタマリスクの花。今回の方が花の色は濃いようでした。揺れるバスの中からあちらこちらにタマリスクが群生しているのが見えました。こんなお花畑に出会えるとは、長時間ドライブのご褒美でしょうか。

 他にもヌクスからヒヴァへの道中や、タシュケントからサマルカンドへ向かう列車の中からもタマリスクが咲いているのを見掛けました。割と水路の近くに咲いている様です。昨年10月にウズベキスタンを訪れた際は同じ列車からも全く見えなかったので、丁度開花の時期だったのかもしれません。

 植物でもシルクロードは繋がっていると感じられた旅でした。いつか機会があれば、ウズベキスタンで綿花の摘み取りを体験したり、春に咲くチューリップの花畑を見たりできればと夢は膨らむばかりです。
(寄稿者)会員:田中麻子様


◆「ウズベキスタン協会とウズベキスタンの強い結びつき」」
 日本ウズベキスタン協会設立20周年記念「ウズベキスタン周遊8日間の旅」には、いくつかの偶然が重なり参加できた。動機は未知の土地への好奇心と、深層的憧れのシルクロードのオアシスの街や世界遺産となっているサマルカンド、ヒヴァを訪ねてみたいということ。もう一つ付け加えると、私の長年の仕事とも関係する、最近急増しているウズベキスタンからの留学生の国情を知る機会になればとの軽い気持ちだった。

 しかし、この中央アジア・ウズベキスタンの旅は、思いがけず濃密な学習の旅となった。旅には真っ白のキャンバスで出かけたが、旅を終える頃にはキャンバスには埋まりきれないほどの下絵が出来上がり、この後どのように描き上げてゆくのか、思案せねばならない。

 日本ウズベキスタン協会の活動については、これまで部分的にしか知り得ていなかった。今回の旅で、嶌会長の20年にわたるウズベキスタンとの関わりと貢献、また川端理事長のウズベキスタンにおける調査・研究と社会貢献等を知る機会を得、それに裏付けられた旅先での日々出会った様々なサプライズに、協会とウズベキスタンとの強い結びつきを知るよい機会となった。

 今回の濃密な旅を振り返ってみたい。

◆ハイライト編

◇その1
 一般に敗戦後のロシアによる日本人捕虜のシベリア抑留の話はよく知られている。しかし、かなりの数の捕虜が中央アジアに連れて行かれ、ウズベキスタンで劇場の建設、発電所の建設等に携わった部隊もいたということについてはこれまでほとんど知られていない。2日目に訪れた日本人墓地(きれいに整い桜の木が植えられた墓地は、ウズベキスタンの親子が代々墓守をしている)や、墓地に隣接する日本人捕虜の記録を地道に調べ、日本人抑留者資料館として公開されているスルタノフ館長の展示資料や説明と『ヒイラギ』という日本人抑留者の記録ビデオを見て、これまで知らなかった多くのことを知り、学ぶことができた。

◇その2
 そして、日本人捕虜457名によってつくられたタシケントの代表的な建造物となっているナボイ劇場(ロシアの4大劇場の一つ)を訪れた。全て見学できる予定が手違いで外観のみの見学と言われ、嶌会長の粘り強い交渉で館長の案内で内部の見学もさせてもらうことができた。劇場の内部を見ることなしに、この劇場の素晴らしさを語ることができぬほど細部にわたり細かい細工が施された歴史的建造物であった。1966年にタシケントを襲った直下多型大地震で街のほとんどの建物が崩壊した中、無傷で救護所に使われたというこの美しく堅牢な建物への関心が集まり、これの建設に携わった日本人への関心と尊敬が高まったという。

◇その3
 限られた時間の中でウズベキスタンの東に位置する首都タシケントから西にある自治協和国・カラカルパクスタン共和国に移動し、アラル海の環境公害の実態に触れて来た。かつて漁村であった「船の墓場」には、数台の漁船が乗り捨てられ並んでおり、その向こうには荒涼とした荒野が地平線まで続いていた。旧ソ連時代の計画経済政策による大規模な綿花栽培の展開によりアラル海の水が無くなり、現在の海面は元の十分の一ほどになっている。生態系がすっかり変わり、移住を余儀なくされた漁民も多い。20世紀最大の環境破壊と言われている。

◇その4
 広大なユーラシア大陸の重要な拠点(通り道)にあったこの国の悠久な歴史を知る手掛かりとなったタシケントの「国立歴史博物館」、サマルカンドの「アフラシャブ博物館」の見学。そして、ムナイクの「アラル海歴史博物館」、ヌクスの「サヴィツキー美術館(考古学者の収集品、民族芸術)」の見学。



◇その5
 街全体が世界遺産のヒヴァのインチャカラの観光、世界遺産のサマルカンドの観光(シャーヒジンダ廟、グーリアミール廟、レギスタン広場、ビビハニムモスク等)とレギスタン広場でのプロジェクションマッピングによるサマルカンドの壮大な歴史物語の鑑賞。





◇その6
 タシケントの協会創立20周年記念パーティーで日本大使をはじめとした在タシケントの日本人及び元日本留学生との交流会(with 民族舞踊)、日本センターでのタシケントの日本語学習者との交流会。

◇その7
 タシケントのチョルスバザール見学、ヒヴァの城内にある東京農工大の支援するウズベキスタンの女性の自立支援のお店「Cocoon(コクーン)」の見学と買い物、タシケントのアートバザールの見学と買い物、サマルカンドのショブバザール見学・買い物、スーパーでの買い物。



◇その8
 日々の食事:朝のホテルの朝食、昼食、夜の食事。







◇その9
 乗り物:タシケント→サマルカンドの特急列車「アフラシャブ号」乗車、タシケント→ヒバ、ヌクス&ウルゲンチ→タシケントの国内便の利用、また予想以上に快適な(新しい)観光バスでの移動。(但し、タシケントで前評判のよかった地下鉄乗車と駅の見学ができなかったのは残念!)



◇その10
 旅で目に残る風景はやはり日本にないものばかり。地平線までずっと平らな荒野、そこにこの時期咲くピンクの花が美しかった。草もない砂漠と小高い丘、あちらこちらで沿道から見た延々と広がる綿畑、牛と羊の放牧、世界遺産のモスク、廟、神学校、巨大なバザール、家を取り巻くポプラ、背の高い桑の木…

 また、この国は雨が少なく乾燥しているせいか、大都市でさえすえた匂いや悪臭がない清潔感のあふれるところとの印象をもった。

 まだまだ、記憶に残る様々なこと、ものが浮かぶが、この辺でストップしておく。ただ、今回は日々盛りだくさんのスケジュールで、かつメモも取らなかったため、不正確な記憶も多々あると思っている。おかしなところ、誤りなどはご指摘いただけばありがたい。

 なお、今回の現地での訪問先は、川端先生の現地でのご経験の中から厳選してくださったものも多いのではと感謝。また、様々なサプライズは、嶌会長、川端理事長のウズベキスタンに対する長年の貢献による賜で、参加者は数々の大変貴重な経験をさせていただいたこと、改めて感謝いたす次第です。

◆サプライズ編

◇その1
 創立20周年記念パーティーでは、藤山大使ご夫妻、駐在員、日本語学校「NORIKO(ノリコ)学級」のガニシェル校長、元日本留学生等駆けつけてくれ、協会会員は顔見知りと旧交を温めていたこと。また、思いがけず一組の男女による軽快な民族舞踊が披露された。

◇その2
 ヌクス空港に夜、到着したが、カラカルパクスタン共和国 Kazbekov第一副首相のお出迎えと民族衣装の女性達がピラミットのように重ねたパン(ナン)と塩を携え、また男性たちによる民族楽器の演奏による出迎えがあり大いに感激した。更に翌日は、共和国警察車の先導でヌクスからムイナクへ我々のバスは移動。



◇その3
 ヌクスのサヴィツキー美術館の特別見学と美術館内展示のゲルの中で民族音楽演奏があり民族楽器と素晴らしい歌い手による歌で歓迎された。

◇その4
 ヒヴァを離れる前の夕食会場にTemur I. Davletovホレズム州副知事が現れ、嶌会長に昔のビバの役人が着ていた制服?(縞模様の短い衣装)と冬は寒い地域なので、ラクダの長い毛で作ったという伝統的な帽子がプレゼントされた。更に、ホレズム州副知事は夕食の席にヒヴァの民俗音楽団を派遣してくれ、歌と踊りと大変にぎやかな楽しい席にとなった。

◇その5
 サマルカンドに電車で到着した時、プラットホームにモティル・サマルカンド副市長の出迎えがあり、歓迎の挨拶と駅の特別室を通っての特別改札となった。更に、我々のサマルカンド観光に市の職員1名が同行し、いろいろ配慮してくれた。さらに、夜のレギスタン広場のプロジェクションマッピングの席も特別に用意してくれた。まだほかにもサプライズがあったかもしれないが、とりあえず思い浮かぶまま書き出した。

 最後に特記したいことは、ウズベキスタンになってからの元日本留学生が帰国し、政府の重要ポストについたり、外務省や日本大使館での勤務、ビジネスでの成功、観光ガイド等々について活躍されていた。そして、その方々の多くが日本ウズベキスタン協会とかかわりを持っていることだった。



 また、短時間だったが日本センターで交流した日本語を学んでいる大学生や社会人の日本語会話力の高さにも驚いた。各グループに別れ、学生達と交流したのだが、私のグループには外国語教育で1~2位の国立タシケント東洋大学の日本語学科の学生が3人いて、中には「日本に留学して将来日本文学の翻訳の仕事がしたい」と言っていた。ぜひ日本に留学して、夢を実現できればよいなと思っている。

 そして、最後になるが、国立サマルカンド東洋大学外国語学部日本語学科を卒業しているツアーガイドのドストン君は、筑波大学に1年間留学し、日本でも様々な経験を積んでいる頼もしい我々の助っ人だった。ドストン君の卓越したツアーガイドと様々な現地での配慮が、この旅行を更に豊かに実りあるものにしてくれたのは周知のとおりです。ありがとうございました。

 併せて、嶌会長、川端理事長、佐々木さん、そしてツアーガイドのドストン君、遠藤さん、この旅の企画、準備から、我々の旅行中の安全と見守り、ありがとうございました。
(寄稿者)会員:布施知子様

◆感銘深いウズベキスタンへの旅
 今回の旅の参加者の中で私が一番ウズベキスタンについて無知な人間だったと思います。友人に誘われ、どこか珍しそうなところに行ってみようと安易に参加しました。最初は参加の皆様の知識に驚き、お墓参りやパーティーにおろおろしてしまいました。

 しかし、いろいろ教えていただいているうちに本当に素晴らしい旅に参加させていただいているのだと実感しました。アラル海へのバス旅の車中での千葉先生の講義、折々の嶌会長のお話、参加された方々の含蓄ある話の数々に教えていただくことばかりでした。

 ウズベキスタンの風物、素晴らしい遺跡、街並みの美しさ、歴史の深さどれを見ても感銘深くあっと言う間の8日間でした。

 今になって遅ればせながら歴史の本を読んでいますが、次回はもっと丁寧に深くウズベキスタンを理解できるようになりたいと思っています。モスクの前で拾った小さな青色のタイルの破片を大事にしまっています。
(寄稿者)会員:河内若菜様

◆ウズベキスタン紀行 ~74年を経た抑留者の想いと共に~
 2019年9月、日本ウズベキスタン協会設立20周年記念旅行に参加し、念願のウズベキスタンを訪ねる機会に恵まれました。8日間の行程に詰め込まれた訪問先は、どこをとってもハイライトといえる魅力にあふれる旅でした。今回、その中のいくつかを紹介します。

 9月6日成田空港からウズベキスタン航空にて一路、首都タシケントを目指し飛び立ちました。初めて利用する航空会社で、出発ゲートに入ったときは、まだ現地からの機体が到着しておらず、少し不安でしたが到着後素早く出発準備も整い、定時制は守られているなぁと私の仕事柄、気になり、まずは感心。フライトは快適でした。

■タシケント観光
 タシケント到着翌日は、市内観光に出発。一番に訪ねたかった『日本人墓地』、『抑留者資料館』、そして『ナボイ劇場』を巡ることができました。『日本人墓地(ヤッカサライ墓地) 』では、抑留者としてこの地で2年間過ごした父と同じ収容所で過ごし、逝去された長尾清さんと野村浅一さんのお名前を墓碑で見つけ、手を合わせることができました。お二人のことを父から生前聞いていましたので、非常に感慨深かったです。

 そして、墓地の近くにある『日本人抑留者資料館』に移動。当時の数々の資料を収集・管理し私費で資料館を運営されている館長のジャリル・スルタノフさんにお会いし、資料館の中を案内いただきました。綺麗に整理し展示されている、当時の手紙、絵、食器、鍋などから、強制労働の中余った資材を工夫して利用していた様が見て取れました。また、一緒に働いていたウズベキスタンの人達からパンや果物を差し入れてもらったお礼にと日本人捕虜が造ったおもちゃや、ゆりかごなども当時のまま残っており、そこからウズベク人との交流も垣間見ることができました。スルタノフさんをはじめ、親子3代に渡り墓守をしてくださっているミラキルさんご一家にも大変感謝しております。

 その後、最も訪問を楽しみにしていた『ナボイ劇場』に到着。これまで何度もTVや本で紹介されていたものの、実際にこの場所に立ち、触れてみたいと強く思っていた場所でした。戦争終了後、日本に帰国できると信じながら、見ず知らずの地に連れてこられ、2年余りこの劇場の建築に携わった方々の想いを、戦争を知らない世代である自分が見て、感じることで、自分の中でもやもやしていた何かが晴れたような気がしました。

 幸運にも、『ナボイ劇場』のユリア館長自ら案内と説明をして下さいました。劇場内部にも入ることができ、さらに閉館時は入ることができない客席からバレエの練習をする風景を見ることができたのは貴重な経験でした。この劇場入り口の柱の見事さ、内部の装飾の荘厳なことと緻密さ、どれをとっても72年前に完成した当時と遜色なく残っているように思えました。劇場中央の巨大なシャンデリアを見て、生前父が「このシャンデリアの取り付けは、みんなで滑車を使って持ち上げて取り付けた一大イベントだった」と話していたことを思い出し、感慨に浸っていた時に、嶌会長から「どうですか、実際に来て、見てみた感想は?」と声をかけられましたが、言葉にすることができず思わず声を詰まらせてしまいました。

 まだ20代そこそこの若者たちが、食事もままならない過酷な環境の中で強制的に働かされた時代を考えると、なんて私たちは平和で幸せな人生を送っているのだろう、そして現地で亡くなられた抑留者の方たちが、大都会となったこの街を見たらなんと言うのだろうと改めて感じる一日でした。

■水のなくなったアラル海
 タシケントから飛行機で1000kmほど西にあるヌクスに到着。一泊し、そこからバスで砂漠の中をひた走りムナイク地域を目指しました。この地域はかつて世界で4番目の面積を誇る『アラル海』の沿岸で漁業が盛んだったところだそうです。また、昔は兵士を運ぶ船の往来も盛んだったようですが、今はカザフスタン側の治水の影響により水が涸れ、地平線まで見渡せる荒涼とした風景に一変していました。

 ここに満々と水を湛えた巨大な湖があったとは、想像もつきません。かつての湖底であったところには錆びついた多くの漁船が取り残され、『船の墓場』と呼ばれています。この風景は確かに見ものではありましたが、わずか数十年もの間にこれだけの環境を破壊してしまう、人間の恐ろしさも同時に感じます。そんな中でも、砂漠に防砂のためサクサウールや赤い花の咲くタマリスクという植物が植えられ、環境に適応する植物の生命力にも驚かされました。

 この地で長年にわたり、環境問題に携わられている川端先生、医療問題に携わられている千葉先生のお話も道中、伺うことができ、単なる観光とは異なるとてもユニークな旅となりました。なかなか辿りつくことは難しいようですが、機会があれば水のある所まで行ってみたいものです。

■世界遺産の街『サマルカンド』
 ヌクスからヒヴァにバスで移動し、『イチャンカラ遺跡』を見物。さらにウルゲンチから飛行機で深夜にタシケントに戻るという目まぐるしい旅程を経て、翌早朝には特急列車『アフラシャブ号』でサマルカンドに向かいました。この列車はスペイン製のタルゴで、いかにもヨーロッパらしい洗練されたデザインの列車です。

 『サマルカンド…』この響きはいかにもシルクロードの街という感じがしました。好天に恵まれ、いわゆるサマルカンドブルーがよく似合う一日となりました。ここでの観光の目玉は何といっても『レギスタン広場』。広大な広場の周りはメドレセと呼ばれる神学校やミナレットで囲まれており、ブルーのタイルで装飾された中央アジア独特の幾何学模様の建物が目を惹きます。晴れ渡った青空と相まって、今まで見たことのない鮮やかな色に目を奪われました。また、メドレセの内部は外から想像もつかない世界で、金色で統一された荘厳なドームや壁に囲まれていました。

 今回、昼のみならず、夜のレギスタン広場も堪能することができました。夜はプロジェクションマッピングを楽しむことができ、大音量の音楽とともにこの国の壮大な歴史がメドレセに投影されました。国の英雄でもある『ティムール』が登場すると観衆から拍手喝采や歓声が浴びせられていました。広場内の特別な席で鑑賞することができ、とても有意義な日となりました。

■この国の文化と食事情・お会いした方々
 ウズベキスタンは多くの遺跡が残るロマン溢れる国であると同時に、都会では開発が進み、旧ソ連時代の古い建物は新しい近代的な建物に生まれ変わっています。平均年齢も若く、これからも発展してゆくことだろうと思います。最終日に訪ねた日本センターでは学生たちと会話する機会もあり、多くの若い人たちが夢を持ち、国の発展のために役立ちたいと考えていることがよくわかりました。

 街のところどころにはチャイハナ(喫茶店のようなもの)があり、古き良き習慣も残っているようです。私は残念ながらチャイハナで男たちがお茶をしているところには出くわすことがなく、そのチャンスはありませんでしたが、旅のメンバーの中には誘われお茶を飲んだ方もいたようです。

 食事は「動物性の油を多く使っているため、お腹を壊すよ…」と言われ気を付けていたものの見事に壊してしまい、最後まで満足のいく食事を摂ることができませんでしたが、全ての料理が美味しかったです。特に、プロフが本当に美味しく、体調が許せば際限なく食べてしまったと思います。そのほか、シャシュリク、ラグマンなど魅力ある料理も豊富です。

 『チョルスーバザール』などにある食材も豊富で、日本では見かけたことのない果物や野菜、カラフルな香辛料、ドライフルーツなどがありました。特筆すべきは、試食した焼き立ての『ノン』の美味さです。『ノン』は、中央に模様の入ったウズベキスタンのパンで、その美味しさに驚きました。

 私はお酒を飲みませんが、ワインはレベルが高いようで、ご一緒した方々の多くが飲まれていたので、ついお土産に買ってしまいました。

 人の優しさに触れることができたエピソードも紹介します。

 タシケントのアートバザールでは蜂蜜が売られていて、多くの種類がありました。何の花の蜂蜜か知りたかったのですが、販売していたお母さんはロシア語しかできず、意思疎通ができず苦労していました。すると、若い女性がスッと来て通訳をしてくれました。おかげで希望のアカシアの蜂蜜を購入することが叶い、大変ありがたかったです。

 2日目の懇親パーティでは着任されたばかりの在ウズベキスタン藤山大使や今までネットを通じての会話しかできなかった『NORIKO(のりこ)学級』のガニシェル校長、現地で活躍されている日本企業の方々など、多くの方とお会いし、話ができたことも私にとっては貴重な体験でした。

 今回、旅を共にした現地ガイドのドストンさん、添乗員の遠藤さんを含む28名のメンバーと初めて会った方々も含めすぐに打ち解け、非常に仲良くなり、気持ちよくご一緒することができました。皆、全行程を無事に過ごせたことが何よりでした。本当にありがとうございました。

 最後に嶌会長、川端先生のお力添えで、行く先々で特別な歓迎や出迎えを受け、パトカーの先導で私たちのバスが走るという初体験、食事の席ではそれぞれの地域で伝統的な歌と踊りを堪能することができたことに深く感謝いたします。
(寄稿者)会員:永田立夫様


◆これ以降の追加の寄稿は当協会会長嶌のブログに順次掲載されます(>>詳しくはこちらから)。
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