ナジロフ・ドニヨル 筑波大学人文社会科学研究科 修士2年生
1.はじめに
皆さん、はじめまして。ウズベキスタンのナジロフ・ドニヨルと申します。現在筑波大学の人文社会科学研究科の修士2年生です。日本に来て3年立ちますが、この期間内に日本のことをいろいろ体験し、あらゆるものにおけるカルチャーショックを受けてきた。カルチャーショックと言うと、外国人が住んでいるその国での食文化、宗教、結婚式、お葬式、お祭り、言語、文学などが考えられますが、個々人によってその他文化に対するショック感じ方がさらに異なってくると思います。他の外国人と同様に、筆者も日本文化に対する自分なりのショックを受けてきました。本稿では、日本で暮らしている外国人を非常に悩ませている日本人の曖昧さについて述べることにします。
2.外国人は曖昧さについてどう思うのか
最近、世界でグローバル化が進み、日本にも外国人が多く来られるようになりました。主に就職と勉強を目指す外国人の人が多いが、どっちにしても日本語力を身につけることが要求されます。しかし、日本語力を身につけただけで、満足できそうなコミュニケーションがとれるのでしょうか。文化的な背景知識も必要となってくるでしょう。文化面でのコミュニケーションの問題について「なぜ日本人は曖昧な言い方をするのか」と外国人はよく愚痴をこぼします。例えば、若い男性の留学生の中で、日本人の彼女を作りたいと言う人は少なくない。若い日本人の女性と付き合って、どこか遊びとか食事に誘おうとしても、彼女からはっきりとした解答が出てこない。例えば、「考えておくね」、「行くかもね」、「ちょっと」、「でも」といったような解答が出るのが多くあり、外国人を混乱させるのであります。また、先生や知人や友達同士でも会話をする時にも、相手が自分の意見や気持ちを明確に発言しない場合も多くあります。例えば、欧州人だと、はっきりとした言い方をし、「Yes」あるいは「No」で話を済ませます。私の国でも、ある一部の微妙な話を除き、はっきりとした言い方をするのが一般的であります。しかし、日本人の曖昧さは外国人を変な思い出に落ち込ませ、外国人と日本人の間にギャップが出来てしまいます。しかし、日本人のこのような曖昧さを批判的に捉え、自分の反情を直接伝えても問題がかならずしも解決するわけでもありません。ここで、筆者はなぜ日本人は曖昧な言い方をするのか、この背景に潜んでいるものは何なのかということについて調べることにしました。
3.なぜ日本人は曖昧なのか
日本は島国であり、大陸から離れ地理的には孤立した環境であると言えます。日本の文化や伝統などがこのような孤立した環境で生まれてきたから非常に独特ものだと言えます。さらに、日本は山国で、平地が非常に少ないのです。したがって、昔から人口の密度が高く、同じ地域に住んでいる人々はお互いのことをよく知っていました。このような環境の中で、仲良く暮らせるために「和」というハーモニーを維持することは不可欠なものでありました。また、農業の仕事で生きている農民は、豊な収穫を取るには周りの他の農民からの協力を受けずに全部一人でやるのはしんどいでした。このように、生き残っていくためには、先輩や仕事相手などの気持ちを尊重し、話していることばに十分気を付けて話していました。はっきりと「はい」あるいは「いいえ」と答えても、相手はその答えをどう受け取るのか、非常に微妙でした。したがって、相手の意見を尊重し、村八分を回避するために、非常に丁寧とした答え方が必要とされました。この丁寧な言い方と言うのは日本人の曖昧さの源であると言っても過言ではありません。
4.おわりに
このように、日本人の曖昧さは、ある一定の要因のもとで生まれ、人間関係維持や、社会での生き残りのために重要ものとされてきました。日本人が適当に考えた言い方ではないわけです。しかし、「外国人は日本人と違った意識と価値観を持っているか、もっと社交的で明るく話しかけてもいいのではないか」と思う人もいます。でも、日本人は曖昧な言い方を意識的にするのではなく、無意識的にしているのです。つまり、曖昧さは日本人と切っても切れない関係にあるのです。世界では様々な文化があります。日本の文化もそのひとつであり、非常に独特な文化だと言えます。最初は、私も日本人の曖昧さを批判的に考えていました。しかし、曖昧さも生き残るための一つの道具であるということをわかってから、その考え方が大きく変わってきました。日本は経済発展国の中でアメリカにつぎ2番目をしめしています。それは、日本人が共同で行動し、お互いに協力しあったことの結果だと思います。共同と協力の理念を保ってきたのは曖昧な言い方であり、それは外国人に嫌われても、日本人にとって目に見えない武器であると言えるのではないでしょうか。 |