6月10日、11日タシケントで開催された上海協力機構第10回首脳会議の日程に合わせるかのようにキルギスの南部オシ市でウズベク系市民とキルギス系市民の衝突が発生し、12日には近隣のジャララバードにも飛び火しました。衝突による死者は当局が把握しているだけで300名、実際の死者は1000名を超えると言われています。犠牲者はウズベク人、キルギス人の双方に出ています。オシの大半の住宅地域は灰燼に帰し、ウズベク系住民10万人が一時国境を越えてウズベキスタンに避難しました。オシとジャララバードの人口をあわせても40万人足らず、今回の衝突による国内難民は40万人といわれ、すさまじい惨事がキルギス南部を襲いました。
多くの報道機関は今回の衝突を「少数民族ウズベク人と多数派キルギス人との対立」と解説していますが、キルギスにおける最大少数民族であるウズベク人のほとんどはオシとジャララバードの両州に集住しており、ここではウズベク系住民の数がキルギス系住民と拮抗しています。
この二つの地域ではこれまでウズベク人の政治的権利が十分守られておらず、ウズベク系住民の不満には根強いものがありました。一方キルギス系住民は経済的に豊かなウズベク系住民に対して反感を抱いてきたと言われています。しかしバキエフ前政権はキルギス人がウズベク人を力で押しのけるといった抑圧的な統治を行い、民族対立の火種はくすぶっていました。
ジャララバードとオシを地盤とするバキエフ大統領がこの4月に政権の座から追われた後、バキエフ派はジャララバードを拠点に反暫定政権の策動を繰り返し、キルギス南部には複雑な政治情勢が生まれました。バキエフ政権下で一貫して抑圧されてきたウズベク系住民は4月政変をきっかけに政治的権利の回復、社会的発言力の強化など、今後のキルギスの政治的環境の改善に期待を高め、バキエフ派の巻き返し策動にも冷淡でした。またバキエフが支持を当てにしていた南部のキルギス人政治エリートたちはバキエフ派とウズベク系住民との敵意に満ちた関係を周知しており、バキエフ政権に対する民心の離反を目にし、早々とバキエフを見限りました。そして自分達の権益擁護を図るために暫定政権と妥協を図り、暫定政権に協力する立場を取るようになりました。しかしこのプロセスからウズベク系住民がまたも排除されました。
ジャララバードでは4月政変直後の4月14日にウズベク系住民とキルギス系住民の間で衝突がありましたが、犠牲者は出ず、その後双方は自制に努力していました。しかし、民族対立のマグマの動きは激しく、ジャララバードやオシのウズベク人社会に影響力のある地元の有力者カドゥルジャン・バトゥイロフは何度も地元の民放TVを通じてキルギス南部にウズベク人自治区の創設を訴えるなどし、地元キルギス人の強い反発を買っていました。
南部での支持基盤の弱い暫定政権が任命した知事(代行)は行政経験が浅く、南部の政治エリートたちと折り合いが悪くてオシやジャララバード州政府や市役所では揉め事が絶えませんでした。そうした庁舎内の争いを横目に5月から6月にかけてオシ市内ではキルギス人とウズベク人の若者同士の小競り合いが頻発していました。ところが現地の警察は治安維持の効果的な措置を取らなかっただけでなく、ビシケクにも正確な情報を報告していませんでした。現地の警察官はすべてコネで就職したキルギス人で喧嘩の仲裁にふさわしい権威を備えていないだけでなく、ウズベク人への反感を持つものが多くいました。こうした状況のもと一部のウズベク人が銃弾薬など大量の武器を集め隠してしたことが今日判明しています。最悪の事態を予想していたものと思われます。
事態をさらに複雑にしたのはアフガニスタンで製造された麻薬がタジキスタンからキルギスを通ってロシア、ヨーロッパへ大量に送られていることです。この輸送に関わる複数の犯罪組織がキルギス南部で根を張っており、互いに抗争を繰り返しています。バキエフ前大統領の親族の一部が麻薬ビジネスに関わっていた事実も最近明らかになりました。
キルギス南部のこのような一触即発の情勢を政治的に利用しようとした勢力がいたことは事実です。今回の民族衝突の結果、
1)国際社会はキルギス暫定政権の統治能力に懸念を抱くようになりました。
2)そして6月27日の国民投票の実施を危ぶむ声が一層大きくなりました。
3)さらにキルギス南部にPKOを派遣し、暫定政権の統治を停止すべきという主張も聞かれるようになりました。
これらはいずれも追放されたバキエフ前大統領が期待していたこととぴったり一致するため、今回の民族衝突をバキエフ派が挑発したという指摘が多くの識者からなされています。衝突に先立つ5月中旬YouTubeに、バキエフ前大統領の次男マクシムが彼の叔父であるジャヌィッシ・バキエフ(政変時大統領府警護長官)と電話で暫定政権打倒の打ち合わせをしている延々35分の会話が公表されました。誰が盗聴したのかいまだに不明ですが、電話の当事者がこの両名であることは確認されています。電話でマクシムは、自分が金をだすので、武装したならず者を500人雇い入れ、100人一組となって5箇所で騒乱を起こすことを叔父に執拗に提案しています。これは今回オシで起きた騒乱のシナリオに酷似しています。
マクシムは多額の公金横領でキルギス政府から国際警察に逮捕請求が出ています。オシとジャララバードでキルギス系住民とウズベク系住民が凄惨な衝突を繰り返していた13日の夜、マクシムは逃亡先のラトビアからチャーター機でイギリスのハンプシャーにあるファンボロー空港に到着し、その場でイギリスの国境警備隊に身柄を拘束されました。衝突のタイミングに合わせた逃避行とも見られていて、今回の惨事を引き起こしたのはバキエフ周辺であるという心証が強まっています。バキエフ前大統領が今回の民族衝突に自分が関係していることを否定して、オシのカジノでの犯罪組織同士の銃撃戦から今回の民族衝突が始まったと詳しい解説を早い時点で行っていますが、いかにも不自然な印象を与えました。
いずれ誰が何のために引き起こした衝突であるのか、国際調査団が入り、原因の解明が進むでしょう。下手人たちが国際司法裁判所で裁かれる可能性もあります。
パニック状態であったとは言え、ナイフや銃を持ち出して対立する民族の無辜の住民に対し無差別の殺人行為に走るという狂気に多くの男性がとらわれました。そこに今のキルギス社会の病根があります。キルギスでは人口の半分以上が25歳以下の若者という人口爆発が起きています。多くの若い男性が定職をもたず農村や都会でぶらぶらして貧しい生活を送っています。金をもらって政治集会に動員されたり、宗教的扇動にたやすく影響されたり、ときには犯罪組織に組み込まれたりしています。4月政変の後のビシケク市内で発生したすさまじい略奪行為はこうした若者の状況をよく現しています。何かを壊さなければすまないすさんだ心情が集団ヒステリーになって、今回相対的に豊かなウズベク人への暴力に転化したといえるかも知れません。政変といい、民族衝突といい、暴力が残した大きな傷跡はキルギス社会に深く残るでしょう。
オシ、ジャララバードなどキルギス南部はタジク人も含め多くの民族がモザイク状に共生してきた長い歴史があります。民族間の衝突も今回が初めてではありません。今回の悲劇を教訓として二度と惨劇を繰り返さない粘り強い努力が求められています。
ウズベキスタンは今回10万人にも及ぶ避難民の受入に全力を尽くし、大きな混乱もなく避難民は6月末までにほとんどキルギスに戻りました。しかし、その多くは住む家を失っており、これから冬にかけて住居の建設を急いで進めなければならず暫定政権にとっては重たい課題です。オシやジャララバードではウズベク系住民も加わって軍と住民の代表が共同で治安の維持に当たっています。暫定政権は何とか自力で現地の秩序回復を実現しつつあります。
こうした中、6月27日の国民投票は予定通り実施され、平穏な中、キルギス全国では70%の投票率、そのうち90%が新憲法を支持し、オトゥンバーエワに大統領職への信任を与えました。衝突のあったオシやジャララバードでは満足な投票所もない場所が多くありましたが、身分証明書の提示で投票ができたため、両地域でも50%を越える投票率になりました。欧米の選挙監視団も深刻な違反行為はなかったとして今回の国民投票の成立を認めています。
4月に誕生したキルギスの政権は今回の国民投票で国民の信任を受けて、各国政府は次々に暫定政権の承認に踏み切っています。暫定政権にとっては大きな勝利です。キルギスは新しい政治制度の構築に向けて第一歩を踏み出しました。しかし、今回の事件は天山山脈の山中の騒ぎにとどまるものでは決してなく、キルギスが大国のパワーゲームの場になったことを如実に示しています。
6月11日オシの危機的状況がビシケクに伝えられたとき、オトゥンバーエワ大統領はロシア単独のPKOをキルギスに派遣するようロシアに要請しました。しかしメドベージェフ大統領は大方の予想に反してその要請を断り、キルギスの自助努力で事態が解決されることに期待すると回答しました。4月政変が起きたとき、プーチン首相が即座に暫定政権支持を打ち出したことを思い起こすとメドベージェフ大統領の反応はロシアの対キルギス政策の変更を意味するのか国際世論の大きな関心を呼びました。
キルギスを取り巻く大国、隣国のなかでロシアは最もこの国に深く関わっています。メドベージェフ大統領の態度も緻密な情勢分析と判断に基づいたものです。アメリカ、中国、カザフスタン、ウズベキスタンはキルギスをめぐってどういう態度を取ったのでしょうか。今後の展望はどのようなものか、次の機会に詳しく論ずることにします。
※本稿の内容はいかなる機関の意見を代表するものでなく、筆者個人の見解です。
(寄稿者:浜野 道博(キルギス共和国日本人材開発センター前所長))
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