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捕虜の汗「夕鶴」に実結ぶ
◇ウズベク「ナボイ劇場」のオペラ公演に感激◇ 永田 行夫
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日中央アジアに位置するウズベキスタン.8 月末に首都タシケントにある「ナボイ劇場」で,團伊玖磨さん作曲の「夕鶴」が上演された.私は客席で感無量の気持ちを抑えきれずにいた.ナボイ劇場は戦後,旧ソ連軍の日本人捕虜だった我々が建設に従事したオペラ・バレエ劇場だ.そこで日本人が作曲したオペラを聞ける時が
80 歳の今日になって来るとは,信じられない思いだった.
ナボイ劇場は延べ床面積 15,000 平方メートル,観客席 1,400 で煉瓦(れんが)造りのビザンチン建築物である.1947 年に完成し,六十六年の同地の大震災の時もほとんど被害がなかったという.
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25 歳ながら隊長に
航空修理厰(しょう)の陸軍技術大尉だった私が,約240 人の仲間と第四ラーゲリ(収容所)についたのは 45 年 10 月.まだ 25 歳だったが少佐以上の将校が別の場所に送られたため,私が「タシケント第四ラーゲリー」の隊長となった.後に収容所の人数は増え
450 人を超えた.
ナボイ劇場は第二次世界大戦中,建設工事が中断していた.戦後,現地のウズベク人,ロシア人などが劇場建設を再開し,捕虜のドイツ人は所内で靴修理に従事していた.
劇場建設に関わった我々の作業は,土木,煉瓦積み,彫刻,鉄工,配線,大工,左官,電気溶接,測量など多岐にわたっていた.朝六時に起き,八時から昼の十二時まで作業.午後は一時から五時まで働き,夕食後から消灯の九時までは自由時間だった.
隊長としては,皆が無事に帰国するまで絶望せず,肉体的にも衰弱せずに過ごすよう気を配らねばならなかった.将校は私も含め大学や専門学校卒業直後に入隊した 20
歳代前半の者が多く,労働や食事なども仲間と同じだった.
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気晴らし道具も手作り
我々の隊は元来飛行機の修理が仕事である.機械,電気,板金,エンジン,計測器,配管,溶接と専門家がそろっていた.中でも若松律衛君という大卒の建築技術者がいろいろアドバイスし,ソ連側も一目置いていたようだ.私は仲間に以心伝心で疲れぬように働けと伝えたつもりだったが,それでもソ連側の期待以上に作業は進んだ.
気晴らしの道具もすぐに見つかった.作業上の床板などで麻雀(マージャン)牌,将棋の駒,碁石などを器用に作った.麻雀のレートは千点で配給の砂糖小さじ一杯分だった.
さらに現場の資材の利用で舞台,幔幕(まんまく),衣装,バイオリンをはじめ楽器類なども作った.本職の役者がいて演技指導し,「国定忠治」や「婦系図」などを上演した.こうなるとソ連軍将校が関心を持ち「次は何をやるか」と聞いてくることもあった.
無論,不幸なことに変わりはない.食事は常に不足して,私も栄養失調で歩くのがやっとの時期があった.南京虫には悩まされ,月一回のシャワーは石けんを流し終える前に湯が切れた.冬は建設現場の足場板を持ち帰って部屋の薪にしていたが,後にばれて厳禁となった.二人の仲間が事故で亡くなった.
それでもシベリア労働などに比べれば恵まれていた.現地の人々と風ぼうが似通っていたこともあり,作業現場では人種差別もなく片言で会話を交わし,良好な関係だった.
47 年の完成間近に,バレエなどの練習を見せてもらった仲間もいたという.ナボイが完成するとみな別々のラーゲリに分かれ,やがて帰国した.私は 48 年 7
月に舞鶴に到着した.
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建設当時と変わらぬ姿
ウズベキスタンと日本の関係が近くなったのは同国が 91 年に独立してからである.民間の日本ウズベキスタン協会が発足し,昨年は羽田孜元首相とカリモフ大統領との会談がきっかけで夕鶴公演の話が進んだという.今年
5 月になくなった團さんも,生前大いに乗り気だったという.私もかつての収容所仲間とともにタシケントを訪れ,一週間滞在した.演出家の鈴木敬介氏はナボイ劇場の歴史の重みを感じ,涙混じりでリハーサルをしたという.
当日は,一,二階だけではなく普段は入らない三階席まですべて埋まる盛況ぶりだった.鶴の恩返しをテーマにしたオペラだから,現地の人々にも理解しやすかったのだろう.最初に10
人近くのウズベキスタンの子供たちが,日本語で歌を歌う場面があり,強く心を揺さぶられた.フィナーレでは観客が総立ちになって拍手していた.
戦争終了後異国で強制労働に従事させられ,青春の数年間を抑留生活で失ったことは,取り返しのつかぬ損失と思っている.しかし,今回戦友の墓参りが出来,またナボイ劇場で我々の建設当時とほとんど変わらぬ姿であることを確認できたのは大きな喜びだった.完成時に劇場の庭に植えたポプラやプラタナスの若木が
20 メートル以上になっていた.この木が枯れぬよう友好が続いてほしいと願っている.
(ながた・ゆきお=元タシケント第四ラーゲリ日本軍隊長)
出典:日本経済新聞,平成 13 年 9 月 26 日版 |
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